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「首途( かどで )八幡宮」は、もとの名を「 内野 ( うちの )
八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社である。
今から約830年前、 高倉 (たかくら) 天皇 承安 (じょうあん)年間(西暦1174年)に、 源九郎義経 (みなもとのくろうよしつね ) は、牛若丸時代、 金売吉次 ( かねうりきちじ ) の屋敷であったこの地で、鞍馬山を抜け出して吉次と落ち合い、屋敷近くにあった「内野八幡宮」に奥州平泉の 藤原秀衡 ( ふじわらひでひら ) のもとへ出発するにあたり、道中安全を祈願して出立したという。「首途 ( かどで )
」とは「出発」の意味で、以来この由緒により「首途八幡宮」と呼ばれるようになった。
社伝によると、この地は古く平安京 ,御所の北東の隅に位置し、当時より皇城鎮護の社として重んぜられ、皇后方の尊崇も厚く、桃薗親王の旧跡としても知られていた。境内は広く、池・築山をめぐらし、春、桃の木が爛漫と花咲く頃、桃花祭が執り行われた。社頭には数多くの参拝者で満ち、稚児舞の奉納等が行われる情景は、あたかも絵巻物を見る感がある、と伝えている。その御神徳深遠で、崇敬者は広く畿内外に及び、日々参拝者で盛んな賑わいであった。其後、度々の兵火にあい、特に天明の災害により当宮の社殿、宝物類に至るまで悉く灰燼に帰した、との事である。
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